気づくのが遅いんだよ、ばかやろぉ。

4/14
ふと前の晩、思い立った、やせなきゃと。
何がいいかと考える。
とにかく腹付近がやばい気がするのでそこを重点的に、ってのはだいぶ前から思っていたから、
腹筋を色んなパターンで適当にやってる。
んで、やせるとなると全身運動がいいだろう。
色々調べてみる、有酸素運動が良さそうだ、、、でも、走るのは嫌だ、寒い;


趣味と兼ねようってわけで、自転車でやることにする。
でも、走るのと違って運動の負荷?としては楽だから、距離か時間を増やさなければ。
んな感じで、防寒対策をして出発。
目標を一応考えていたけど、まぁ、最初なんでできるかどうかのお試しって感じ、
距離は少し長めにしたから、ダメだったら短くしようかなくらいで漕ぎだす。
結果からいうと、距離は適正だと思う、、、けど、寒すぎ(笑
ある程度漕げば、体もあったまってくるだろうって考えてたけど全然ダメ。
水分として持っていってた、ぬるーいお茶すら温かく感じたほど。
途中できれいな夕焼けに出くわすが、デジカメを忘れなおかつ携帯は電池切れ、
せっかくのチャンスが台無し、おかげで心が折れかけた;
そんなこんなだったけど、なんとか目的地には着けた。
そっから今度は大体同じ距離を帰ってくるんだけど、まさかの向かい風。
そーいや、北海道は今、大荒れ模様とか言ってたなぁ、、。
家に着くころには手と足の先の感覚が薄れるほどで、なぜか咳が出るように;
達成感はあったけど、スタートからとばしすぎたかなぁ。


あと、夜に久々に長いことチャットした。


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4/15
今日も昨日に続き、自転車で有酸素運動
昨日と全く同じコースを進んだけど、手袋と上着を変えて防寒対策を強化してみた。
それのおかげで大分寒さは耐えられるようになった(フードもかぶってたしねw)。
風も昨日ほどではなくて、快調に自転車は進む。
途中で昨日、夕焼けが撮れなかった場所にさしかかった。
今日はちゃんと用意してきたので↓

風車。



全景。



夕焼けアップで。


その後も難なく帰ってこれた。


自転車漕いでるときは色んなことを考える。
考えていたのは、教育論。
なんてのは大げさだけど、昨日のチャットでそんな話が出たのでなんとなく。


学校の勉強、、、好きでも嫌いでも、特別得意でも特別苦手でもなかったような気がする。
よく言われる、というかよく聞くことで、学校で学んだことは社会に出たら役に立たないと。
まぁ、一理あるなぁと思う。
ただ、それはあくまで中身に関してだとも自分は思う、つまり、数学や歴史などの知識を学んでも、
それを活かす場所はほぼ無いと。
あっても、研究?特殊な仕事?、極々一握りの分野に限られるのではないだろうか。


ガリ勉しまくって、ものすごーく真面目で、でも成績がそこそこ順位もそこそこみたいな人に、
自分は何人か出会ったことがある。
かと思えば、勉強も全くしてないわけじゃないけど、良い成績、良い順位でいる人もいる。
頭の出来の違い?まぁ、それも全く無いとは言わないけど、自分は考え方の違いではないかと思う。
前者の人たちは、どうも見ている限り、勉強は義務感でしかない。
後者の人たち(そんな知り合いは大していなかったから、なんとも言えないけど)は、
少なくとも、勉強との付き合い方を分かっているのではないかと思った。
学校の勉強の中身、それ自体にはあんまり意味はないのかもしれない。
しかし、それを行うことが自分にとってどういう意味を持つのかを理解してれば、
そこから得るものは大きく違ってくるはずである。
ただ知識を得るのではなく、その事を成す姿勢や、反復することの意味など、
その本質というか、核に当たる部分こそが社会に限らず、色んなことに活きる。
それに気づく賢い人間は、自分の先、将来にそれが通ずること理解し、淡々と勉強をやってのける。
要はモチベーションと言ってもいいかもしれない、義務でやっているのと、自分の必要とすること、
という認識の違いでは格段に差が出るのだと思う。


ただ、学校で学ぶ勉強に全ての人に通ずるってわけじゃない、どうしたって合わんって人だっている。
そう思ったら他の道へ進めばいい、芸術でもスポーツでも、自分が必要とする本質に気づけるものなど、
探せば色々あるはずだ。
人生においてスタートとゴールが決まっている、それが仮に100mの縮尺だったとしても、
短距離で始めたとしても、途中で長距離の走り方をしてもいいし、ハードルにしてもいい、
要は最後に着くまでにいくらでも変えていいのだと思う。
でも、本質を見抜くことを諦めて、やり方を変えるというのでは全く意味がない、
必死で見つめ続けても合わないと思ったときにこそ、やめられるのだ。
自分は、頭が良い=成績が良いだとは思わない。
本当に頭の良い人は自分のことをよく理解できてるし、本質を見抜くだけでなく、
取捨選択をたくさんこなしているから、他の人より万能であると思う。
誰もが頭の良いに人間になればいいかというと、そうも思わない、やっぱり能力は人それぞれ違うから、
伸ばせるところがあれば、それを伸ばせば良いのだと思う、数じゃあない。


自分にとって何が大事か気づける賢い人間はいる、でも大体の人は気づかない、
だから義務で苦痛なのだ。
最終的には自分で見つけなければならないことかもしれないが、それを見出すきっかけは必要だ。
教師や、塾講師なんかは実は気づいているのではないだろうか、、、。
一人一人に接していれば、その子がどういうものを必要としているか、あるいは選択肢を。
でも、それは彼らにとって大して利益にはならない、むしろ損失になりかねる、
良い成績、良い進学、そこに利益が出る、でもそれは生きるため、仕方がないと思う。
だったら誰がするの?
親にあたる人がやればいい、損得無しに考えてやれる。
子供のためと言い、すべてやることを決め付ける親、子供の意見を尊重すると言い、
すべてを放棄する親、子供のことを考えるなら、そいつの口から発したことに関して考えなければ、
どうして子供のためなんて言えるだろうか。
1から10全てを一緒に考えてやる必要なんかない、ただ何かを始める前に、
子供が考えだしたことに対して、必要となること(ごくごく一般的なことでいい)と、
あとは選択肢を差し出せばいい、そっからまた自分で考えて、決めさせればいい。
そうすれば、自分にとって何が必要か、気づいてくれるはずだと思う。


偉そうなこと書いてる自分は、今どうかというと、最底辺な人間だと思う。
言い訳をすれば、いささか気づくのが遅すぎた。
自分は逃げることが得意なのだろう、壁を越えることなくひたすら並走し続けた、
その結果、自分を見つめる時間を費やすことが無かったのだろう。
↑に書いていたことは、自分に子供がいたらやるべきだと考えることだと同時に、
自分がして欲しかった願望でもある。
そうなると自分の親が悪かったってことになるけど、否定はしない。
ただ、それと同等、あるいはそれ以上に自分を意図的に避け続けてきた自分にも否がある。
遅すぎたとは書いたけど、気づけただけましかなとも思う。
きっと色んな人、、、本当に心を許せる人に出会って、話をして、

自分のことを自分以外の人から聞けて、それを自分なり考える、
そんなきっかけがあったから気づけたのだと思う、本当にその人たちには感謝している。


って、いったい何の話になっているのやら;
まぁ、そんなことを考えて、チャリ漕いでたわけだ(色んな意味で危ないなw)。


家に帰ってからは、また部屋の模様替え。
PCがちょっと移動した、ちょっと気軽には触れ辛くなったけど、その分集中できるようになった。


60/100